役割を脱ぐ、身体

  • 雄一
  • 5月 30, 2026

この3年間、

「父親」として日々を暮らすことが

当たり前になった

 

いつも頭のどこかで娘のことを考えていて、妻子がいまどんな調子なのかを見積もっている自分がいる

 

それを愛と呼ぶのか、

余計なお世話と呼ぶのかは分からない

 

ただ確かなのは、

そこに「素の自分」はいない

ということ

 

そこにいるのは、

父親として、夫として、

どうふるまうのがよいのかの

最適解を探している人

 


 

そんな状態の時の身体の体感は、

 

伸びやかさがなく、せせこましい

広がれずに、縮んでいる

眉間の間が狭く、苦しい

身体の重心が上にいっている感じ

 

そんな感覚でしょうか

 


 

所属の欲求、というものがある

 

自分の存在が許され、他人の存在を許せる場所

 

大切に扱われ、大切にかかわりたい他人がいる場所

 

それがある、という安心感や喜びは、とても素敵なものだと思う

 

家族がいること

帰る場所があること

自分を待ってくれている人がいること

 

それは本当にありがたいことだけれど、気づけば、その居場所の中で演じている自分の役割に、過剰にはまり込んでしまうこともある

 

「父だから、こうしないと」

「良き夫として、こうした方がいい」

 

そうして他人に優しくふるまう(と思い込む)ほどに、自分がないがしろになってしまう

それは優しさというよりは、自分を置き去りにして自己犠牲しないと、大切な人に愛されないかも、嫌われちゃうかも

という恐れからの行動かもしれない

 

そうした適応行動を責める必要はないけれど、

本音では”苦しい”って、

やっぱり思っているはず

 


 

深刻なカラダの不調の背景として

大きなベースとなっている1つに、

こうした

「自分を大切にできていない」状態

があると思う

 

もちろん、不調の原因にはさまざまなものがあるだろう

 

食生活や環境の変化

過去の痛み

疲労の蓄積

身体の使い方

内臓への過度な負担

 

けれど、その奥に「自分の感覚から離れてしまっている」ということが、静かに横たわっていることが少なくない

 

誰かのために

家族のために

仕事のために

役割のために

 

そうやって日々を重ねるほどに、

自分の身体の声は、

いつのまにか遠くなる

 


 

せめて、施術の空間においては

すべての方が、あらゆる役割から解き放たれてほしいなあ、と願う

 

父でも、母でも、妻でも、夫でもなく

ただ、ひとつの身体としてそこにいる

 

そういう時間が、

人には必要なのだと思う

 

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