この3年間、
「父親」として日々を暮らすことが
当たり前になった
いつも頭のどこかで娘のことを考えていて、妻子がいまどんな調子なのかを見積もっている自分がいる
それを愛と呼ぶのか、
余計なお世話と呼ぶのかは分からない
ただ確かなのは、
そこに「素の自分」はいない
ということ
そこにいるのは、
父親として、夫として、
どうふるまうのがよいのかの
最適解を探している人
そんな状態の時の身体の体感は、
伸びやかさがなく、せせこましい
広がれずに、縮んでいる
眉間の間が狭く、苦しい
身体の重心が上にいっている感じ
そんな感覚でしょうか
所属の欲求、というものがある
自分の存在が許され、他人の存在を許せる場所
大切に扱われ、大切にかかわりたい他人がいる場所
それがある、という安心感や喜びは、とても素敵なものだと思う
家族がいること
帰る場所があること
自分を待ってくれている人がいること
それは本当にありがたいことだけれど、気づけば、その居場所の中で演じている自分の役割に、過剰にはまり込んでしまうこともある
「父だから、こうしないと」
「良き夫として、こうした方がいい」
そうして他人に優しくふるまう(と思い込む)ほどに、自分がないがしろになってしまう
それは優しさというよりは、自分を置き去りにして自己犠牲しないと、大切な人に愛されないかも、嫌われちゃうかも
という恐れからの行動かもしれない
そうした適応行動を責める必要はないけれど、
本音では”苦しい”って、
やっぱり思っているはず
深刻なカラダの不調の背景として
大きなベースとなっている1つに、
こうした
「自分を大切にできていない」状態
があると思う
もちろん、不調の原因にはさまざまなものがあるだろう
食生活や環境の変化
過去の痛み
疲労の蓄積
身体の使い方
内臓への過度な負担
けれど、その奥に「自分の感覚から離れてしまっている」ということが、静かに横たわっていることが少なくない
誰かのために
家族のために
仕事のために
役割のために
そうやって日々を重ねるほどに、
自分の身体の声は、
いつのまにか遠くなる
せめて、施術の空間においては
すべての方が、あらゆる役割から解き放たれてほしいなあ、と願う
父でも、母でも、妻でも、夫でもなく
ただ、ひとつの身体としてそこにいる
そういう時間が、
人には必要なのだと思う